おばあちゃん。

僕の両親のそのまた両親、つまり祖父母のうち父親方の祖父は僕の生まれる20年以上前に亡くなっている。母親方の両親の記憶はしっかるとあるのだが、僕が幼稚園の頃に相次いで亡くなった。父親方の祖母は自宅から徒歩1分の工場で働きながら女手ひとつで父親(兄)とおじさん(弟)の2人を育ててきた。父親方の祖父が亡くなってから30年以上働いて、僕が小学5年生の時に定年退職した。花束を持って帰ってきたことを覚えている。

もうそれから18年になる。退職したての頃はいつも図書館で読みきれないほどの本を借りてきたり、平日の全ての曜日に習い事や町内の会合の予定が入っていた。毎朝6時過ぎには少し離れた公園で行われる体操に行っていた。頻繁に旅行にも行っていた。頭の回転が早くて、大きな声で怒られたことも数知れず。60代後半や70代の前半の人というのは驚くほど元気なのだ。

今も見かけは全然変わらないのだが、時が過ぎるにつれて僕の知らないうちに、おばあちゃんは朝の体操に行かなくなり、昼間の予定が減るようになってきた。といっても、1キロ以上離れたスーパーや商店街に買い物に行ったり、日々の家事は全く問題なくこなせている。多少物忘れをするようにはなったが、そんなに体力が落ちたようには思えない。世の中の83歳にしては非常に元気である。ただ、一日の大半を家の中で、テレビの前で過ごすようになった。

日々のいろいろなことを止めていくようになったのはおばあちゃん自身が決めたことだからそれに対してどうこうというつもりもない。ものごとを続けるというのは疲れることだ。実家の隣にはおばあちゃんよりも少し年齢が上の人たちが住んでいる家が2軒連なっていたが、それぞれ住んでいた人たちはみな亡くなり、空き家になった。いつか取り壊して地主がアパートでも建てるのだろうか。反対側の隣の家(酒屋)も商売が傾き、家は売りに出され、新しい買い手がスタイリッシュなリフォームを施した。長年買い物に使っていた実家の近くの小さな市場もついに営業をやめることになった。18年という歳月はかくも長い。

いつまでも元気でいてほしい、ということももちろん思うけれども、それは綺麗ごとなのかもしれない。長く生きるということは残酷なことでもある。なにが満足なのか、ということは難しいが、とにもかくにも、好きなように生きてほしいと思う。