花巻東、佐藤涼平くん。

2009年に旋風を巻き起こした菊地雄星投手。彼がプレーした花巻東高校のメンバーのなかで、ひときわ背の低い選手がいたことを覚えている人も多いのではないか。

2番センターの佐藤涼平選手は身長155センチ。大柄なチームメイトに交じって並ぶと、頭ひとつ分以上くぼんで見える。打席に入ると、対戦する投手はストライクを取るのに苦労する。そして彼は2ストライクと追い込まれると、「カット打法」という術を使う。ヒットを狙ってバットを振るのではなく、わざとタイミングをずらしてファールを打つのである。日々、彼だけはひたすらファールを打つ練習に取り組むのだ。そうして、根負けした投手からフォアボールをもぎとって出塁することを狙うのである。1度の打席で、相手投手に15球投げさせたこともある。彼にとって求められるのはフォアボールで出塁すること、そして走塁で相手投手のペースを乱すことなのだ。甲子園でも彼はその役割を立派に果たした。とある甲子園の試合では送りバントをして一塁に走るところで相手の野手とぶつかり、脳震盪を起こして一度退場しながらも、その次の回の守備には元気な姿でグラウンドに飛び出し、大観衆から割れんばかりの拍手を受ける、というワンシーンもあった。当時楽天イーグルスの監督をしていた野村克也からも、彼が話題に取り上げられたことがある。身体の小さい全国の野球少年にとって、彼はある種のロールモデルでもあった。彼の身長の低さは野球をやるうえでの「長所」なのである。

先週の金曜日に、そんな彼の訃報が流れた。中学教員を目指しつつ、日体大で野球を続けていた。彼は岩手県でも沿岸部の宮古市出身である。震災がなんらかの影響を及ぼしたのかは分からない。菊地雄星がプロ野球選手としては考えられないくらいに人となりが素朴で、繊細な心を持っていたように、彼もなにか思うところがあったのだろうか。周囲の期待に押しつぶされそうな気持ちになっていたのだろうか。真実はわからない。日体大の寮は僕の自宅からもそう遠くない横浜市青葉台にあり、その寮の近隣の道端で彼は命を絶った。彼の眼に横浜は、東京はどう映っていたのだろうか。そして花巻は、宮古はどのように見えていたのだろうか。

菊地雄星が6月30日のオリックス戦でプロ初勝利を挙げた時には、真っ先に彼から祝福のメールが来たという。またひとつ、想いを背負って彼はマウンドにあがり、僕たちはそんな彼に思いを託す。