ジキルとハイド。

先日に引き続いて、蓼科・佐久方面に出張。仕事ではあるが、洗われるような緑がまぶしくて、癒される。蓼科山とその周辺の高原はどこも稜線が丸みを帯びていて、女性的な雰囲気を漂わせている。そういえば、蓼科は女神湖という名の湖がある。

蓼科も軽井沢と同様に避暑地ではあるが、両者の観光地としての力量には大きな差がついてしまっている。その一番の要因としては、アクセス(新幹線)が挙げられるのだが、それに加えて、現地の観光施設がハードとソフトの両面で全くアップデートされていない。蓼科のメインストリートは軽井沢など比べものになるぬくらい豊かな自然に抱かれているが、そこに流れる空気はバブルが崩壊してから時間が止まったかのようである。蓼科もまた、バブルの夢の跡が今なお感じられる場所に数えられる。こんな景色を見ていると、1980年代後半のバブルとはかくも凄まじいものだったのだろうと思わされる。少なくともITバブルやリーマンショック前の好況なんてバブルの実感規模では月とすっぽんくらいあるのではなかろうか。

ふと、バブルの頃に自分が社会人としていたら幸せだったのだろうかと想像する。当時の証券会社は新入社員あがりでも、ボーナスの札束が立てられたという。仕事はなんでも右肩上がりで進められただろう。

バブルの世界で生きていれば、僕の性格も変わっていただろうか。ケチケチしてないで、ホットドッグ(雑誌ねw)を片手に一年以上も前からクリスマスのホテルの予約をしただろうか。案外周りに流されやすいタイプだから、そうなっていた気もする。そうなれば、今の自分とはかなり正反対ではあるが、確実に自分のなかにバブル的な資質が実は隠されていると思う。あるトリガーがかかると、意外にも散財してしまうこともあるのだ。いつも宵越しの銭は持たない気質の人よりももしかしたら悪質かもしれない。

これと似たようなことで、普段の僕は人あたりはけっこういいのだが、時に陰湿さが垣間見えたり、心のなかで非常に残虐なことを考えてしまうことがある。自制心の弱さから愚かにもその考えを実行に移してしまうこともある。身の回りのことや仕事の質はかなり大雑把なのだが、それらを先延ばしにしたり、放っておくことにはかなり抵抗感がある。この歳になっても人に(いろんな意味で)甘える癖が抜けないが、その時の頭のなかはかなり冷静だったりする。自分のなかで女性的な一面を強く感じる。

全て僕たちはひとつのプロトタイプから造られ、それぞれグラデーションを与えられているのではないかな。