午前3時42分、千駄ヶ谷にて。

一昨日の夜はアジアカップの日本−シリア戦で、眠い目をこすりながらオフィスにでてきた人も多かったように思える。で、僕は同じころ将棋を見ていて目頭が熱くなっていた。


将棋の世界には、現在150人ほどのプロ棋士が在籍している。彼らは新聞社などがスポンサーとなって、年間に10数回開催されるタイトル戦に出場し、対局料や賞金を得ることを生業としている。で、その数多くあるタイトル戦の中でも最も序列が高いタイトルが名人戦である。現在の名人は言わずと知れた羽生善治。その他の棋士はA級、B級1組、B級2組、C級1組、C級2組の5クラスに分かれて、1年間掛けてクラス内でリーグ戦を戦う。年間の勝敗によって、クラス内の上位数名が上のクラスに昇級し、下位数名が下のクラスに降級する。そして、最上位のクラスのA級のリーグで最もよい成績を収めた棋士が、名人との7番勝負を戦う。ちなみにプロになりたての棋士はC2のクラスからスタートするので、最短で名人に挑戦するには、毎年ずば抜けた成績を残して昇級し続けたとしても5年かかる。名人の地位はかくも果てしなく遠い。また、最下級のC級2組で芳しくない成績となると、フリークラス扱いとなる。フリークラス扱いとなると、一定の好成績を残さない限り、自動的に10年で引退となってしまう。プロスポーツ選手ほどではないが、プロ棋士の世界も厳しい。(ここに書いた名人戦の仕組みについては若干の例外規定がところどころあるがここでは割愛)この名人戦のリーグ戦というのは毎年6月スタート、3月に最終戦が行われる。そのため、これからの季節は各リーグでそれぞれの棋士の人生をもかけた昇級、降級のドラマが各所でみられるようになる。Jリーグの昇格・降格のドラマに似ている。


ということで、前置きが大変長くなってしまったが、今週の後半はそのリーグの大詰めの一歩手前と言える対局が各クラスで行われており、そろそろそれぞれのクラスでの昇級者、降級者、昇級候補者、降級候補者がだいたい見えてくるところになる。前述の一昨日は、最上位のクラスのA級では、僕の好きな棋士であり、将棋界のなかでもかなりの人気棋士である藤井猛九段(といっても一般的には知られていないだろうが・・)が、10年以上守ったA級の地位からいよいよ陥落するかというかという大一番の対局に臨んでいた。対戦者は森内俊之九段。今回のリーグ戦では首位を走っており、現在のところ羽生名人への挑戦に一番近い位置にいる。午前10時から始まった対局は2度の食事休憩をはさみ、深夜2時を過ぎてもまだ続いていた。このタイトル戦の持ち時間は双方6時間であり、通常日付が変わる前後には対局が終わるのだが、異常なまでに熱戦となっていた。既に日付が変わる頃には双方とも持ち時間を使い切っているので、そこから両者は1手60秒の秒読みの中でずっと指し続けている。有料中継のWebページの将棋盤は2人の指し手を更新し続けている。展開は森内九段がややリードし押し切るかというところ。しかし、いつも終盤にプロ棋士にはあるまじき鮮やかな見落としで逆転負けを喫する(終盤のファンタジスタと呼ばれ、それが彼を人気棋士たらしめている最大の要素だったりもするのだが)藤井九段が粘りに粘り、一度リードを奪えば磐石の指し回しをすることから鉄板流と言われる森内九段からついにじわじわとリードを奪い返した。稚拙な言葉だが、僕は感動していた。ちょうど川島がレッドカードをくらった頃だったと思う。

藤井の駒が、森内の王将の周りに包囲網を築いた。岡崎が倒され、本田がPKを蹴ろうとしていた頃、藤井もまた、包囲網を完成させる最後の一手(6八香)を放った。森内の王はほぼ身動きが取れなくなり、いよいよ藤井がA級残留に向けての大きな一勝を手にするか、と、僕も画面の前でこれまでになく気分は高まっていた。

森内は万事休すか、その最後の一手として放った香車の駒の前に、一歩を合わせた(6六歩)。単純に取ってしまえばなんでもない手であり、一歩を犠牲にして時間稼ぎをしたとしか思えない手である。結果論から見れば、藤井はその歩を取る手(6六同香)を指せばよかったわけで、もしかすると森内はそこで投了(負けを告げること)していたかもしれない。

ただ、藤井はその歩を取れなかった。僕も画面で見ていてその歩を単に取っていいものかわからなかった。森内のことだから、この歩を取ってしまうと、なにかトラップにかかってしまうのではないかという疑念がぬぐいきれず、かつ60秒という時間ではそのトラップを見つけることはできなかった。だとしたら、開き直って歩を取ればよかったのだが、自分の指し手に絶対の自信を持つことができなかった。秒読みの声に追われる中で、自分の中の直感は、自分自身を信じ切ることができなかった。


藤井は6六同香とは別の手を指した。その瞬間、これまで何百手もかけて積み上げてきた優勢が崩れ落ちた。後でコンピュータ将棋ソフトに同じ局面を入力したが、この一手で、藤井優勢に傾いていた形勢の目盛りは、一気に森内勝勢といえるところまで振り切れた。脳内にまとわりついた疑念を振り払うことができなかったばかりに。僕も将棋の実戦で、最後の秒読みに追われて何度も同じような経験をして、天を仰いできたので、この気持ちは痛いほどよくわかる。


それから日本が6分のロスタイムを終えて20分ほど経過した頃まで、藤井は粘り続けたが、ついに再々逆転はならず、午前3時42分、藤井は投了を告げた。Web中継のコメント欄には、「この香が、香が、、」と藤井がつぶやき続けた。と記されていた。藤井はこれでリーグ戦2勝5敗となり、リーグ単独最下位。残る2局を連勝しなければ、ほぼ降級は免れない。


わずか33時間前のできごと。これだから将棋はやめられない。