メンテナンス、コントロール。

冷たい雨の1日。みちのくを車で移動する。リゾート地ではあるのだけど、晩秋であることとあいまってなんとも寂しい風景が続く。これがまた、雪が積もる時違う趣きになるのだが、いまの時期はまだ寂しさの極である。

 

道のりの至るところに昭和の頃に造られた建造物が並ぶ。本当に、昔は日本は元気があったんだろうなあ、よくもこんなどデカいものをせっせと作っていたものだなあ、と感嘆する。いまは、そうやって造ったものを丁寧にメンテナンスしながら、良さを生かして末長く使い続ける時代なのだ。

 

造ったときにメンテナンスのことまで思いを巡らせたものと、そうでないものがある。その差が今になって現れてくる。コントロールを失い、朽ち始めたものを見るのは悲しくなる。

 

人間も同じようなものなのだろう。晩年になって、自制ができなくなると、特に男性は際限なく醜くなってしまう。自分の手綱は人に渡さないこと、握りを緩めないことだ。

大阪のおっさん。

豪快な経営者の方と会食。なんと同窓ということが発覚する。なんともレアな邂逅なのである。これもなにかの縁と言うほかない。

 

大阪の空気感があんまり好きでなくて、18歳のときに大阪を出て関東に行くことを選んだのだが、気づけば大阪で仕事をする機会がコンスタントに発現してから、もう15年近くが経過している。大阪の商売人たちの独特な間合いがやっぱり好きなのである。とはいえ、その世界にどっぷりと浸かるのはしんどいので、ヒット&アウェイでもうしばらくは進むのかもしれない。

 

なにかとスマートな世の中になってきている。それとともに大阪のビジネス環境も苦しくなってきている。大阪にとって、この数十年は逆風の連続で、すっかりと都市としての足腰も弱くなってきまった。しかしながら、いまこのタイミングが、ターニングポイントなのかもしれない、という根拠のない予感がある。

 

波があり、また時代は繰り返す。局面の展開が加速していく足音が聞こえる。

転換点。

Twitterを使い始めて12年、つぶやくことはほとんどしないけれども、いつ何時も手放さず情報収集ツールとして楽しく使っている。おそらく1日のうち1時間弱くらいはTwitterに費やしているのではなかろうか。

 

イーロンマスクがTwitterを買収して、荒療治に踏み切っている。この試みが成功するか否か、かなり賭けな部分はあると思うが、仕事に向き合う姿勢や価値観を含めて、大きな転換点になるであろうことは間違いなさそうだ。

 

ダイバーシティ働き方改革など、労働をめぐるシーンは一貫して労働者の権利を拡大する方向に変化してきた。その方向が行きすぎて、ビッグテックが足元から腐りはじめており、各社それに対する大ナタをふるいはじめたのが、現在地というところだろうか。

 

それに伴いTwitter社などでは大量の従業員の離反なども相次いでいるが、果たしてそれでもサービスは、会社はまわるものなのか、我々は壮大な実験を見させられていると言ってもいい。

晩秋の球音。

息子の野球の大会、優勝。息子自身は準決勝、決勝とは出場しなかったものの、良い試合だった。いよいよ来年はメインを張って出場することになると思うと、気の引き締まる思いである。

 

もう冬の到来を思わせるような寒空、時折小雨も降るなかで、それでも熱気のある試合だった。相手も良い投手だったが、そこからよく打った。試合を戦っていくことを通して、みんなが成長していっている、ということがファインダー越しによく分かった。

 

試合終了とともに雨が強くなってきた。ハンディカムをしまい、だるい身体に鞭を打って撤収作業をする。また、来年の春までしばしの小休止ということになる。冬の間にしっかりと根を張るような練習ができるだろうか。

 

6月に本格的にはじめてから半年弱、まだまだではあるけれども、それでもずいぶんと成長できたなとは思う。これからも、伸びやかに野球を楽しんでくれたら、と願う。

眠り。

久しぶりに息子のピアノのレッスンに。そこそこ暖かい部屋で座っていると、途端に眠たくなる。意識が落ちまいとするも、それに抗えない。メモも取ってはいるのだが、後から読み返しても意味がわからない感じである。

 

睡眠が足りない日々が続いている。これだけ長年出張が多いにもかかわらず、床が変わると寝られない、という体質はいつまで経っても変わらない。正確に言えば、睡眠が足りないわけでなく、眠っても4時間半くらいで目が覚めてしまい、そこから二度寝をするのがなかなかできない。確かに疲れてはいるのだが、それでも眠りにつけないというのはなかなかにしんどいものがある。

 

ロングスリーパーというほどではないのだが、寝不足だとパフォーマンスが格段に落ちてしまうのも確かである。それでも振り返れば、ここ数年はうまく眠れない日が多かったのも事実だ。悔しさや虚しさで眠れなかった日もある。もうちょっと前は単純に子どもの夜泣き等で睡眠が削られたこともあったっけか。よく眠れるにこしたことはないのだが、そういう日もなかなか来ないものだろうか。

疲弊の先に。

本社オフィスにて、イベントもろもろ。掛け値なしに楽しかった。なんというか、ベンチャー企業っぽさがある。普段いろいろとモヤモヤしたことがあったとしても、こういう機会でうまくガス抜きをしていくもんなんだなあ、ということがよくわかる。

 

先週と今週はとにかく出張が多すぎて、疲弊してしまっていた。さすがに今週末は、いろいろとリカバリーができることになるだろう。どれも手を抜くことなく、しっかりとやり抜いていく。これまではどちらかというとスキあらば楽をしようとしていたところから、やっぱり一度きりの人生、やれるだけのことはしっかりやりきってみよう、というマインドに変わってきた。その影響で、なにもなく手持ち無沙汰な時間ができると逆に不安になるくらいに、価値観も変わってきたように思う。

 

遊ぶときは思いっきり遊ぶ。その分仕事もきっちりとする。自分からリミットを定めずに、もっともっとやれるはずだと領域を拡げてみる。人の人生を預かる。

血の繋がり。

実家にて。そろそろ終活、いろいろな終い支度の話が出てくる。まだまだ両親ともに元気なので、今のうちにそういう話をしておけるのはありがたいし、こちらにとっても楽である。

 

いままではすることのなかった、込み入った話をするたびに、ああこの人たちと自分は血が繋がっているんだな、ということを感じる。結局のところ、いろんなところで行動原理が似通っているのだ。まあそういう意味では、親の言うことを聞いて人生を選択する、ということにも一理はあるのだろう(時代の流れを見誤る、というリスクはもちろんあるが)。

 

自分自身、脂が乗っている、と言える期間もおそらくはあと10年くらいなのだろう。それは同時に、ある種では不毛とも言える、競争や他人との比較のレースからも外れていくことでもある。そうなった時に、自分はそれでも自分である、という意識を確立して、心身ともに健やかに生きていくためにどうすればよいか、準備をしておかねばならない。