王子からの卒業。

斎藤佑樹選手の引退セレモニーを見た。通算11年の成績だけをみれば、一軍でセレモニーをやってもらうような選手ではない。それでも、球場のチケットは早々に完売し、2軍選手も集まっての心温まるセレモニーになったことこそが、彼の人望を表しているし、野球選手として結果を残すこと以外にも、球界にもたらしたものがあったという証左であろう。


苦しいことばかりだったろうし、なぜこんなに上手くいかないのだろう、身体が思うように動いてくれないのだろう、という葛藤の連続だったに違いない。それでも、斎藤佑樹という野球人が歩んできた道のりは曇ることのない胸を張れるものだろうし、周りの人に恵まれ、また周りの人が手を差し出したくなるような魅力を持った人物なのだと思う。かつて、大学を卒業するときと同じ「仲間」という言葉を、この引退のタイミングでもまた持ち出してきたところに、彼の野球人生が象徴されている。


そしてここからが、彼の人生が再び輝きだす時間なのだと、確信している。苦しい経験をしたからこそ伝えられること、掛けることのできる言葉がある。

人を動かす。

降り続いた雨とともに気温がぐんぐん下がり、秋が深まってきた。


実はこの半年、17年目にしてはじめて、部下と言える人を持った。これまでは、同じチームメンバーで年下の仲間こそいれども、完全に仕事を指示する関係ではなかった。人に持ち場でいきいきと働いてもらうこと、任せることと引き取ることのバランスを考えるところは難しく、考えさせられることが多かった。


正直なところ、人に任せるよりも自分で巻き取ったほうが手っ取り早い、と思うことも多かった。人ごとではありながらも、日本という終身雇用制度がある程度整っている国で人を採用することのリスクをひしひしと感じることもあった。それでも、力を合わせることで自分ひとりではたどり着けなかったところまで行けるのだなあ、と思うこともあった。そして、上席となる人の器の広さが、部下をどこまで成長させられるか規定するものだということを知った。


今回の経験は、これから先に続く道のためには必要な学びだったのだのだろう。中途半端なところで投げ出さないでよかった。

胃腸。

今週はこってりしたものや刺激物を食べることが多くて、いささか胃が疲れた。この年齢にしてはお腹がよく空く人間なので、普段から白米を中心に食べる量は多いのだが、特に今年に入ってからは外食をかなり減らしていただけに、外食が続くだけで胃に負担がかかる。ああ、外でゴハンを食べるのはもちろん好きだけれども、けっこう身体に負担のかかる行為だったんだなあ、と改めて思う。


美味しいものを食べたい、という欲求はもちろんあるのだけども、質素な食事でも充分満足できる。自炊もいっこうに上手くならないし、自分で作るといつも味付けが濃くなってしまうのだけど、それでも外食よりは胃に負担も少ないし、健全な食事が摂れている、という気持ちになる。もっといえば、レトルト食品を家で食べても、そんなに不健康な食事をしているという感じはしないのである。これが、コンビニ弁当になると、とたんに不健康な味わいになってしまうので、やっぱり外で供される食事には、特になにか普通でないものが調合されているような気がしてならない。


ごはんをお茶漬けにして、ちょっとしたおかずが添えられていれば、もうそれで満足、という境地に早くも達している。

狭間と刹那。

全国的に10月に入ってから飲食関連や観光地が活発に動いている。また第六波が来るかもしれないが、ここまではポストコロナの社会の様相に近いものがあると思う。人間の性として、いつまでも自粛をしているわけにはいかないし、いくらオンラインツールが発達しても、自分の足でわざわざ出かけていくことの価値が減じることはないのだ。


そして、自分が思うよりも人々は刹那的に生きているようにも思う。先々のことがどうなるか予想して、いま我慢をする、という選択肢が取れる人はそこまで多くはないのだ。特にコロナもあり、またいつ外出自粛の生活に戻るかわからないなかでは、制限なく行動することが大手を振って許される時期くらいはめいっぱい羽を伸ばしたい、という人が多いことを肌身で感じる。


それが人間らしくていいような気もする。人生も世の中もなんとかなるし、よしんば先々でなんとかならなくとも、先に我慢せずやりたいことをやっておいたほうが後悔もない。不確実な未来に備えてじっと身構えておくのはやはり精神的に健全でない。はしゃぐことでもないし、基本的には淡々と毎日積み重ねるだけなのだけど、無理に先延ばししたり、断念することは必要ではない。

答えと通過点。

今年もドラフト会議。歳を重ねるにつれ、見方も変わってきた。同世代が、という感覚よりも親として、みたいな感覚に近づいている。


たとえは悪いが、まるで人材が競りにかけられるようである。これだけあからさまに、明と暗が分かれる場面は、競争も緩やかになった現代社会ではなかなか見なくなった。それだけに、人々はドラフト会議という場に釘付けになるのだろう。


さらに、10年前のドラフト会議で指名された選手はいま、、というような特集が、近年はスポーツ雑誌で組まれたりもする。1位で指名され、期待を一身に受けた選手が、結果が出ずにひっそりと去っていくこともある。ドラフト時には全く騒がれずに入団してきた選手が突如ブレイクし、チームの中心選手になっていくこともある。今年は斎藤佑樹選手も引退を表明した。どんな選手生活が良いか、というのははっきりとした答えは出ないものだし、負ける人生にも味わいや学びがある。そして、プロ野球選手としての生命が終わったからといって、この世に生まれ落ちた人生はまだ折り返し地点にも達していないのである。答えなんて、ずっと出るものではないのだろう。


ひとつの通過点をまた今年も垣間見た。いいものを見せてもらった。

経営。

見どころのある中華系の経営者と面談。リスクの取り方に痺れる。むしろ彼なぞは、どうにかしてやらなければならない立場にすすんで自分を追い込むことで、結果を出すことにつなげようとしているのではなかろうか、とも思える。いまの自分の立ち位置では、そうやってひとしきり成功したあとの人たちとやり取りすることが圧倒的に多いのだが、そうではなくて、成功するかしないかの瀬戸際の勝負をしている人と接するとこれはこれでまた違う学びを感じる。


性格上、自分は同じようなリスクはいかようにも取れないとは思ってしまうけれども、そういう勝負をしている人のなんらか力になることは、損得抜きでも面白いことである。そして、いまのビジネスパーソンに最も欠けていることを学べるのかもしれないな、とも思う。できあがってしまった、仕上がってしまった人たちだけと付き合っていては得られないものがある。


彼のビジネスが成功するのか、どこかで頓挫するのか、にわかにはいまの自分は見極められない。どうなったとしても、このビジネスの趨勢を見届けていきたい(もちろん、自分にできることは助太刀したい)と思う。

プペル。

子どもといまさらながら「プペル」を観る。ブームや話題になる時期も去って、変な先入観抜きで観ることができた。絵本も読んだことはあるので、話のエッセンスとしてはよく分かっているつもりだが、映画版になるとまた少しアレンジされている。


伝えたいメッセージが明確なので、観ているほうがいろいろ考えることもなく、すっと映像ややり取りだけを受け取ればよいのは楽である。最近のドラマやアニメは、ひと目見ただけではストーリーが理解しきれなくて、まず正確な理解をすることに神経が取られてしまうことになり、心というよりは頭で鑑賞してしまいがちになってしまうのだが、プペルのようなシンプルなストーリーであれば、心で受け取ることに専念することができる。純粋に感動することができた、という人が多いのもそのおかげだろう。そのために子どもが観るものとしても適している。もちろん、何度も見返してディテールを頭で掘り下げていく、という鑑賞の仕方もある。


あと、絵も綺麗だった。これから日暮れが早まり、夜が長くなるこれからの季節に観るにはもってこいの世界観だと思う。