高尾。

この週末も山に。本当はもう少し本格的なところを狙っていたのだが、午後から天候が不安定になることが見込まれていたので自重して高尾山に。結果的にははんだんは当たりで、午前中は一時軽くパラつくことがあったものの、天気は持ち堪えてくれた。15時ごろに西東京一帯を短時間ながらもまとまった雨雲が通過していったので、深く山に入っていたならば多少はたいへんなことになっていたであろう。


高尾山はこれという難所もないので、全く気が楽である。天候がそれほどよくもないのに、メインルートは芋洗いのように混雑している。メインルートを外すとやや閑散としていて気持ちは良い。これまでに2回は来ているはずなのだが、10年以上前のことなので記憶はかすかである。


時間に追い立てられることもないので、道ばたの草木や虫をじっくりと観察したりすることができるのはかえってよかった。うちの子などは、まだまだなんにでも興味を示す年頃で、それをさえぎって先を急がせるのも酷なことである。ゆったりとした行程で気の向くままに歩くくらいがちょうど良いのだ。野鳥や蝶々なども見れたので、難易度は低くとも充実した山行だったと思う。

3,000。

あと30数本記事を書けば、このブログでの記事が3,000本になるそうだ。さらに、今週末まで書けば連続800日の投稿になる。我ながらよくやるよなあ、と思う。のっけから気の利いたことをかくつもりもなく、ただ自分の脳内を垂れ流しにして、たわ言を連ねてきた。

この前に別の場所で書いてきたものを含めれば、4,000本を軽く超えることになるのだろう。それでなにが残った、ということもない。いつか本当にリタイアして時間ができたときに見返すくらいだろうか、冴えない男の半生のアーカイブである。

それでも、10数年の時間を振り返ってみれば、主だった悩みごとも、人生における立ち位置も、徐々に変わってきているのは興味深い。なにも変わらずに年月だけが積み重ねられているわけではないのがまだ救いである。大きく後退することもあるけれども、長いスパンでみればかろうじて前進しているのもまた救いである。他人と比べてしまえば、進んだ道のりの少なさや獲得したものの小ささにがっかりしてしまう日もあるけれども、良くも悪くもこれが自分だし、それでも生きて(生き恥を晒して)いくのが人生だと思っている。

そんなわけで、3,000本に達したら、ちょっとお休みにしたい。(とは思っているけど、その時がきたらまた心変わりしているかもしれない)

ムード。

緊急事態宣言が明けて1週間。いまのところは感染者数も低く抑えられていることもあり、さもコロナ明けのような社会のムードである。人によっては毎日飲み歩いている。まったく、思っている以上に人は群れて酒を飲まないとやっていられない生物なのだな、と思わされる。


個人的にはこれで終わるとは思っていない。ワクチンの効果は時間とともに減衰していく(ただ重症化を防ぐ効果はありそうだ)だろうし、イスラエルや英国のいまの状況をみれば、日本も多かれ少なかれ第6波がやってくると考えて無理はないだろう。ただ、一律的な制限はもう行われないのかもしれない。


コロナ対策に疲れてしまっているというのもあるし、特にワクチンを打たない人が罹患してひどいことになるのは自己責任、という考えも強まるだろう。もしくは、ワクチンに関わるブラックスワンが起こる可能性もなくはないと考えている。


そろそろ自分にご褒美をあげて甘やかしたい気持ちもなくはないが、自分自身はもう少し我慢、自制してこの年末年始くらいまでは過ごそうと思っている。

憂い。

副反応は36時間くらいで消えていった。これでひと安心、というところだろうか。きょうは精力的にかなり移動もしたが体調も問題がなかった。


そういえば昨夜は大きな地震があった。地盤が固いところに住んでいるので、ありがたいことに震度ほどは揺れない。前のアパートも、その前のアパートも揺れやすい場所であったので、昔は地震が起こるたびにドキドキしていたけど、最近はそうでもなくなってきたことを感じる。


オンラインミーティングで、スクリーンに映る自分の姿を見る。ぼんやりとしている画面でも、ひと目で自分だと分かる姿勢、ふるまい。ちょっとよれよれとした感じになっている。


朝から昼間にかけていろんな問題が勃発したけれども、夕方になるにつれてどれもが終息してくれて、安息の週末を迎えることができた。あれこれと考えたあげくに上手くいかないことは多いが、無我夢中で取り組んでいる時には知らず知らずのうちに良い方向に進んでいることもある。


ほっとして帰宅して、積み残したことを片付けて、食事をして床に入る。憂いなく週末を迎えること以上に幸せなこともない。

うつつ。

iPhoneも触れず、仕事も手につかず発熱する身体と対峙していると、しだいに意識と現実の狭間が曖昧になってくる。脳は勝手なストーリーを作りだし、それにしたがって身体が動き、口から言葉が出てくる。


去年の4月にも同じような感覚はあった。現実を受け止められず、仮想のストーリーを脳内で紡ぐことでなんとか毎日を生きていた。現実を消化するには時間がかかった。とはいえ、時間が経てば現実は消化されるものでもある。


目の前に対処しなければならないことが積み上がっていき、少し先を見据えてやっておくべきことも待ち構えている。もうここいやで全て終わりにしてもいいや、という考えも頭をよぎる。


それでも、自分の気質からすれば、途中で投げ出すことはできないのだろう。苦労をして、ひとつのものを作りあげていくことになるのだろう。


世界はどうなっていくのか、と考える。新政権の進む道は新しい資本主義と言われているが、これは言い得て妙で、古い社会主義、というのが正解であろう。なんたこった、と言うほかないが、いまの国民の大多数が望んでいるのがこの形なのだろうなあ、という気持ちもある。

副反応。

モデルナワクチン2回目接種。さて、どう身体が反応していくか。


ちょうど先日、国民の2回接種率が60%を超えたようだ。今月末までに70%近くまで達してそれで頭打ちというところだろうか。中高生の接種もかなり進んでいるという。そして、当初はワクチン接種を忌避していた層もちらほら接種会場に足を運んでいるというところで、70%達成ということはそういう層も取り込んでいくのだろうな、という思いである。接種会場もかなり空きが目立つようになり、新しいフェーズに突入した感がある。


翌日、微熱で済んでいるのだが、節々が痛いのと寒気がするのとで、稼働はできず朝からベッドに横たわる。食欲もない。しょうがないのだが、こうやってなにもできずに横たわっていると、世間から隔絶されていくような感覚に陥る。たかが1日やそこらでこんなことを感じてしまうのだから、なんだかんだ毎日あっても僕は人の輪のなかで生きていかなければならない人間なのだろう。


24時間が経過する頃にぐっと体温があがる。動けなくなる。とうとうきたか。ただただ耐えて、時間をやり過ごす。

異動。

10月は異動の季節である。今回も1割くらいの人が動いたと思われる。ショックを受けるような異動を突きつけられた人もいるし、存外の抜擢を受けた人もいるだろう。そして異動が良かったかどうかは、その瞬間には判断できるものではなくて、数ヶ月経ってじんわりと実感してくるものでもある。


このように定期異動がある組織にいることが多くなかったので、こういう機会は新鮮なのだが、確かに目の前の環境に閉塞感を覚えているような人にとっては、定期的に異動があるというのはある種の希望なのだろう。あと半年、1年我慢すれば道が開けると思うとやり過ごせることもある。そういうこともない組織ならば、会社を辞めるしかないからだ。


一方で、いまの業務自体、定期的に異動して慣れたと思ったらまた新たなポジションでイチから学ぶ、というほど生易しいものではなくなっているのも確かである。もっと言えば、それでもこなせるような業務は、もはやいまのの世の中では差別性も価値もないのかもしれない。お客さんのことをないがしろにしているようにも見える。弊業界が衰退しつつある一因を見たような気もする。