厄除け2021。

この連休中に厄除けへ。5年連続、寒川に限っては4年連続か。来年から僕も前厄がはじまるので、あと3年は続けて通うことになるのだろう。今年は既に7月も下旬であり、どうかと思うこともあったが、遅れてでも厄除けをしてもらってよかったと思う。


昨年の厄除けから一年半近く。この一年半、本当にいろんなことがあった。運命を呪うこともあった。ただ、こうやってまた元気で寒川に行けた、ということには感謝をすべきなのだろう。


おみくじの結果は去年とはうってかわって良いものではなかった。確か3年前くらいのものと全く同じ内容である。淡々と積み重ねる。気持ちを浮つかせることなく、重心を低くしてどっしりと構えておく。改めてそういう姿勢で毎日臨むべきなのだということを思い起こさせてくれた。


今年の後半も引き続き、いろんなことが起こるだろう。でも、どんなことが起こっても自分は大丈夫、きっと荒波も泳いでいけると信じて、毎日為すべきことに注力する。そして、先行きはこうなるんじゃないか、という第六感も今まで以上に磨き、大切にして過ごしていきたい。

分断。

オリンピックに興味があるかといえばそこまでではない。決勝戦などというシチュエーションになると見てしまう。世の中には、本当に朝から晩までテレビにかじりついている人も多くて、自分にはそこまでのモチベーションはないなと思ってしまう。それでも、4年間、今回は5年間を懸けてきたアスリートの積み重ねには、感動させられることも多い。


白けムードで開幕を迎えたオリンピックではあるが、はじまってしまうといつも以上にのめり込んでいる人も多い。東京開催だから、というよりは、Covidを乗り越えてここまでこぎつけたことへの感慨も深いのだろう。中止にしなくてよかったという人も多いのではないだろうか。


一方で、こんな状況でオリンピックをやっている場合ではない。中止にすべきだった、という意見が少なくないのも事実だと思う。オリンピックもまた、分断を深める要素のひとつになってしまっている。そして、分断を埋めようという人が本当に少なくなってしまっていることも感じる。


なんだかどちらの極にも乗り切れず、もやもやフワフワしているのが自分のいまの立場である。

開会式。

オリンピック開会式。結局ほぼ全て視聴してしまった。息子はやけにはしゃいでいた。


なにからなにまでケチがつき続けた東京五輪だが、始まってしまえば、憑き物が落ちたかのようにスイスイ進んでいくのかもしれない。そう思わせる開会式だった。むろん、それは楽天的な見方であって、見えないところでいろいろと複雑骨折しているのかもしれない。


いまの世界情勢を鑑みて、派手さの抑えられた良い内容だったと思う。商業五輪の流れは完全に途絶したと言っていいだろう。その代わりに、といってはなんだが、人種やら差別やら性別やらといった主義主張とスポーツが大いに結びつけられるものとなった。これがいいのか悪いのかはわからないが、ここから数回はこの流れが続くのであろう。結局スポーツはなにものからも独立して侵されない存在でいることは許されないのかもしれない。


そして北京五輪に向けて政治的な思惑とも結びつけられていくことだろう。そういうことを考えだすと、オリンピックは純粋なスポーツの祭典というよりは、お祭りであり、世界交流の機会なのかな、という思いを強くした。

開幕。

昨日は「いだてん」が再放送されていた。全部は見られなかったが、なんとも味わい深いものだった。ふと気づいて振り返れば、一昨年のブログでもたびたび面白いと激賞している。クドカンの脚本はさすがである。オリンピックをめぐる素晴らしさを描くだけでなくて、ドロドロとした醜悪な部分、そして戦争の愚かさをも描いた日本の近現代史を彩る作品へと仕立て上げている。


「いだてん」にはオリンピックをめぐる印象的なフレーズがいくつも詰め込まれている。2021年のいまの状況を思うに、胸につまされる言葉が多い。ほんとうに、この時代に生きる大人の1人として、こんなに情けない気持ちで自国開催のオリンピックの開幕を迎えるのは、子どもたちに申し訳ないと思う。ただ、旧来のままのオリンピックを開催しようとするなかではこのドタバタはもはや2013年から予測できていたことであり、もはやCovidどうこうというのは理由の後付けでありこじつけなのだろう。


さて、本日が開幕日となる。もう既にお腹いっぱいとばかりにドタバタは見せてもらった。最後までなにが起きても目を瞑らずに受け止めるだけだ。

ラジオ体操。

小学校でラジオ体操をするというので初めて行ってきた。朝の6時半、既に太陽は高くあがり校庭には日陰もない。まだ湿気はないので爽やかだが、身体を動かすと汗ばんでくる。


100人以上の子どもたちが参加していてびっくりする。自分が子どもの頃には早起きしてラジオ体操に行くという習慣などなかった。みんな朝からちゃんと活動していて偉い。


6時半に起きてラジオ体操をしていると、朝の時間が有効に使えて良いのだが、昼間はやはりいささか眠くなってしまう。そして、夜は早めに眠らないとキツい。日付けが変わるまで起きていてはなかなか起きられない。これは健康的な生活になる。


どんどん夏は暑くなってきているけれども、暑いからといってだらけていてはますます体力がなくなってしまう。涼しい時間を見計らってできるだけ身体は動かしておきたい。


ここ数年夏がくるのはなかなか憂うつでもあったが、今年は来るならこい!という心づもりがある。世の中はどう変わっていくかはわからないけれども、自分自身はなにも変わらないし、淡々とやれることを積み重ねていくだけだ。

予言めいた。

ワクチンの接種はもう少し先になりそうである。職域接種は早くて来月の下旬から、住んでいる地域の接種もその頃になるだろう。ただこのペースでいけば、9月には人口の半数が二回接種を完了して、集団免疫に近い状態が完成するのかもしれない。


個人的には、早くワクチンを接種したいと焦る気持ちもなく、かといって忌避する気持ちもなく、自然に順番がくればそのときに打とう、という心持ちである。ここからは少し予言めいたことになるが、今後の展開は以下のどちらかになるのかなと思っている。


・晩秋までにある程度の接種は進むものの、変異株の流行は止まらず医療体制は圧迫され続け、緊急事態宣言もしくはそれに近い状態は今冬いっぱいは継続される

・抗体を媒介として感染拡大する変異株が生まれ、再び社会は混乱の渦中となる。一方でワクチンの効果は発揮され、接種者が重症化することは稀である


いずれもグッドシナリオともバッドシナリオとも言えない。いずれのシナリオにも感染拡大の度合いは上振れも下振れもあり得ると考えられる。行動制限が大幅に緩和されるほどの正常化はまだ遠いだろう。

五輪の十字架②。

(昨日の続き)そういう意味では、東京五輪は本来ならば、日本が世界に先駆けていち早く価値観の変化をとらまえて、新しい価値を披露するまたとない機会だったはずだ。現実はそうはいかず、新しい萌芽はことごとく押さえつけられ、旧世代の、特にもう引退すべき高齢の政治家たちが未だに権力を持ち続けることになった。


どんどん本来目指すべき姿とは違う形に曲げられてしまった東京五輪だが、いまだ、前述の機会であり、このイベントが果たすべき使命は変わっていないと思う。それは、旧来のやり方を貫き通すことで生じる見るも無惨な失敗によって、強引に旧世代の退場を迫り、世代交代をもたらすことになるのだろう。


旧世代はできることなら静かに退場してほしい。ぼく自身もまた旧世代にカテゴライズされるのならば、静かに第一線を去るべきなのだろう。もしくは自分自身のなかの旧世代な部分を葬り去る必要がある。そうやって退場しなければ、必ず無残な形での強制終了、恥を晒すことを余儀なくされるだけなのだ。


東京五輪は中止にせず開催すればいいのだと思う。思いっきり、いろんなところで綻びが出ることだろう。願わくば、アスリートが変に被害をこうむることだけは避けてほしい。いま出せる綻びは全て出しておいたほうがいい。そうやって、禊を済ませて初めて、この国は次の一歩を踏み出せるのだと思う。なにが起こっても、静かに受け止めるだけだ。