小学校。

3月後半から4月あたままでバタバタと進んで、子どもの入学式であった。社会情勢下から、保護者が会場に入れるのは1名までなのだが、もう1名も教室でモニターを見ながら参加できることになった。リモート中継もしっかりとできていて、小学校の先生のリテラシーもしっかりしているものだと思う。


配られたプリント、変わらない学校の椅子、年季の入った建物、全てが、ああこれが公立の学校だなあと思わされるものだ。ぼく自身大学までずっと国公立だったので、学校といえば、おんぼろの建物、という固定観念が染み付いている。近代的なオフィスのような学び舎は、なんだか無機質である。


2年生が新入生に送る歌の映像などをみていると、学校っていいなあ、と無条件に思ってしまう。それはきっとぼく自身も学校にそこまで悪い印象を持たずに大人になることができたからだと思う。公教育の仕組みはもう破綻しているだとかいう話も聞かないこともないけれども、それでもなおまだこの国のこの教育システムは、素晴らしい部分をたくさん残しているし、日本で生きる人を作る礎だとも思う。

第四波。

第四波がきていると言っていい。もうさすがにCovidへの慣れが出てきているというか、特に若者などは自粛が我慢できないという感じなのだろう。これは無理もない。若い時期は短くて二度と戻ってこないのだから。同じように、お年寄りも身体がまともに動く時間は限られているので、やりたいことをやれるうちなのに諦めたくない、という思いはあるだろう。


ここから感染者がまた急増したところでどうなるだろうか。3度目の緊急事態宣言というのは出しづらいし、そもそも効果も薄いだろうから、いまの対策でしのいでいくしかない。そしてオリンピックは諦めなければならなくなるだろうし、いよいよもたなくなる企業も出てくるだろう。ワクチン待望論も湧き上がってくるだろうけど、ワクチンが万能というわけでもなく、まだまだ長い闘いになりそうだ。


この騒動によって、社会がどう変わるか、どんなことが少し先に起こるか、考えながら動いていきたい。自分が新しい時代の主役になるんだ、という気持ちでやっていく。

交差。

一昨日の夜、ふと目が冴えて、頭のなかで考えていることをまとめ始めた。楽しくなってきてその3時間くらい文章をまとめ続けた。おかげで昨日はまる1日眠かったが、心地よい疲れである。


好きなことには睡眠時間を削っても取り組めるものである。一方で、いくら疲れていなくとも、興味のないことはさらっと聞き流してしまう。歳を取ってくると脳のメモリも劣化してくるので、自分の好きなこと以外にはなかなかリソースを割けなくなる。


世の中がどうだとか、周りと比較してどうだとか、あまり気にならなくなってきた。自分がこれと決めた道を進めばいいのだと思う。格好悪くても、おカネにならなくとも、好きなことをやる。


春はいろんな人生が交差する。振り返って、本当に自分は悔いのない人生を送ってきたのか、どうしても考え直すようなシーンを、この時期はたくさん目の当たりにする。


自分にしかできないことを、誇りをもってやっていきたい。評価されるだとか、おカネを儲けるだとかはそこまで重要ではない。死ぬときに、精いっぱいやったなと思える道のりを歩みたい。

船出。

331日、たくさんの人が会社を去っていった。みなそれぞれにあいさつをしていた。


去り際に出てくる言葉に、人柄がにじみ出る。でも、みんなスッキリとした顔をしている。思うところがある人も、なにも言わずにむやみに暴れることなく去ってゆく。


会社、という組織はいまだに素晴らしい形態ではあるけれども、その形がいよいよ崩れようとしている。そんななかで、いろんな人が新しい一歩を踏み出そうとしている姿には、神々しさを感じる。


たぶん、これからもいろんなことが起こるだろう。会社のなかにいても、外にいても、大波に揺られることは間違いない。大きな船ならば座礁してしまうかもしれないが、小舟は転覆してもまたすぐにくるっとひっくり返せるだろうし、なんなら漂い続けて嵐を切り抜けられるかもしれない。


大きな船を飛び出すのもひとつ、大きな船の改造に着手して、なんとかこの先も航海を続けてみるのもひとつ。それぞれの選択、それぞれの人生に幸あらんことを祈る。やりたくないことを無理にやり続ける時代ではない。

ラスト。

幼稚園、最後の日。もう卒園式は終わっているのだけど、預かり保育が31日まで続いていた。思えば2015年の8月に保育園に預け始めてから5年と7ヶ月と少し。あっという間だった。


ついこの間まで赤ちゃんだと思っていたのに、本当に大きくなった。後ろ姿なんかはもう少年のようだ。これからもどんどん大きくなっていくんだなあ、あと5年もしたら、親子べったりということでもなくなってくるんだろうなあ、と少し寂しくなった。


桜は咲いたと思ったらすぐに散りはじめてしまう。人生も同じように、大切な時間はあっという間に過ぎ去ってしまい、二度と戻らない。だからこそ、伝えたい言葉はひとつ残らず伝えなければならないし、元気なうちにやりたいことはやっておかなければならない。


君が大人になることには世界はどうなっているだろうか。人間が人間らしく、さまざまな悩みごとから解放されて生きられる世界がきてくれることを願う。自分で自分の幸せを作りだし、足ることを知ること、そしてできることならば、周りの人のこともちょっぴり幸せにできるような人になってほしい。僕もそのような人間に少しでも近づくために、まだまだやらねばならない。

かけがえのない。

年度末になるとなぜかスイッチが入ったようにモノの片付けをしたくなる。1年の間目を通すことのなかった資料、袖を通すことのなかった服、などを綺麗さっぱりと捨てていく。


古いものが光もあてられずに保存されているのは良いことではない。収納スペースがスッキリとすると、空間に風が流れ出したように感じられる。人間、そんなにたくさんのものを抱えて生きられるわけでもないのだ。


自分自身、記憶力も年々悪くなっているようで、どんどん昔のことを忘れていく。完全に忘れてしまっては困ることもあるから、多少はメモやノートはアーカイブしておくけれども、そうするようになってから今までよりも忘れてしまうことに抵抗感がなくなった。必要なときに情報を取り出すことができるなら、後生大事に脳のメモリを食っておく必要もないのだ。


たくさんのモノや記憶を手放したからといって自分にはなにも残らないわけではない。ヒトが日々摂取した食べもので身体がかたちづくられるように、体験や経験で精神もつくられる。それだけは、何人たりとも奪い取ることができないものでもある。

イメージ。

なんとなく、これまでの自分の人生は、強くイメージしたことが具現化している。こうなったらいいな、数年後はああいうポジションにいられたらいいな、こんな取り組みがしたいな、と思い続けたところに、知らず知らずのうちにたどり着いている。


これは僕だけでなくてみんなそんなものなのかもしれない。志や夢を高いところに置いている人は、それに伴って努力もして、いつしかその目標に手の届く実力も身につけてしまう。そういうものを持たずに日々を流されていきる人は、ほとんどなにも成し遂げることがない。


僕はけっこう現実的な人間であり、なおかつものぐさでもあるので、イメージする将来像もそんなに大それたものでもない。それでも、手触り感のある、自分だけの大切な目標はある。そして、その目標にたどり着くためのチャンスがいまきているように感じる。


成功するには、そのイメージを強く持つことと、それに向けて必要なことを不足なく淡々とやり遂げることしかないと思う。勝負のときが間違いなくここからおとずれる。日和らず、自信をもって踏み出す。